島崎藤村に飲んでもらいたい煎茶

島崎藤村 商品

大磯の偉人に飲んでもらいたいシリーズとして数年前から作っています。

吉田茂に飲んでもらいたいミルクティブレンド
西行法師に飲んでもらいたいほうじ茶
松本順に飲んでもらいたいミルクティブレンド
伊藤博文に飲んでもらいたい番茶
大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶

5人の偉人たちに続いて、ついに第6弾となる島崎藤村が登場です。

※こちらの商品のティーバッグ素材は生分解性のソイロンを使用しております。

島崎藤村について

島崎藤村

▼出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/276/

島崎藤村の生涯と文学的功績

島崎藤村は、現在の岐阜県中津川市(信州・馬籠)に生まれました。
明治から昭和にかけて活躍し、処女詩集『若菜集』でロマン主義詩人として鮮烈なデビューを果たした後、散文へと転向しました。

『破戒』や『春』そして歴史小説の金字塔とされる『夜明け前』などを通じ、日本の自然主義文学を確立した巨星です。
また、日本ペンクラブの初代会長を務めるなど、近代文学の発展に多大な貢献をしました。

大磯町での晩年

藤村が大磯町に移住したのは、晩年の1941年(昭和16年)のことです。
同年1月に大磯の伝統行事である火祭り「左義長(さぎちょう)」を見学した際、この地の温暖な気候と静かな風土をいたく気に入り、終の棲家に選びました。

彼が過ごした邸宅は、外壁に杉の皮が張られた簡素な三間の平屋で、藤村はここを「静の草屋(しずのくさや)」と呼び、執筆に励みました。
現在、この家は「旧島崎藤村邸」として保存されており、当時の面影を今に伝えています。

▼参考:大磯町観光協会オフィシャルサイト「旧島崎藤村邸」

最期と継承される遺徳

1943年(昭和18年)8月22日、藤村は大磯の自宅で大作『東方の門』の執筆中に脳溢血に倒れ、71歳で永眠しました。死の間際、妻に語りかけた「涼しい風だね」という言葉は、彼の最期の言葉として有名です。

現在、藤村の墓所は大磯駅近くの地福寺にあり、生前に彼が好んだ梅の古木に囲まれて静かに眠っています。
毎年命日には「藤村忌」が執筆の地で営まれており、大磯は今も藤村を慕う人々にとって大切な文学の聖地となっています。

島崎藤村と煎茶について

島崎藤村の随筆の中にはお茶が度々登場します。
少し長いですが以下の文章には島崎藤村のお茶への思いが非常にわかりやすく書かれています。

茶も私はあまり強いのは頂きません。ごく精選した茶と云うものは、少し湯をさましたところで入れて飲むようなものでしようが私は玉露のような茶よりも、むしろ煎茶の方が好きです。熱い湯をさしたのが、自分の口には適しています。

ところが、やつぱし茶の好きなものは、人の茶の話などにも自然と注意するものでしてね。 成る茶舗の主人の話を、或るもので読んだことがありましたが、その中にはやつぱし本当のよい味というものは煎茶にあるというようなことが出ていましたね。

私は、あの寒い山国に生れたものですからね。そう云う気候の関係もあって、信州のものはいづれも茶好きです。どこの家でも、日に何度となく茶を淹れて飲むのです。私の茶好きも、 つまりそう云うところから来て居るのでしよう。

私の郷里などの方には普通の茶のほかにネブ茶と言うものがあります。このネブ茶は成る灌木の葉から作ったもので、木曽あたりの農家ではよくそれを飲みます。番茶の味に似て香ばしいようなものですね。ロシヤの方の人なども、寒いせいで、やっぱし温かい飲みものを好くようですね。サモワルと云うようなものがあつて、皆で一つ部屋に集まって、茶を飲むようですが、信州あたりのものが茶好きと言うのも、寒い山国の気候のせいかも知れませんね。

茶の味は一口に云えば淡い。しかし、玉露のようなものになってくると、淡いうちにもなかく芳烈なところがありますね。

フランスの旅にいる間も、私は、下宿で、国からとどいた茶などを淹れて、留学の人達でも訪ねて来る時には、一しよにそれを飲むのを楽しみにしたものでした。たまに、食堂に集まるフランスやポーランドなどの、よその国の人に茶を御馳走しましたが、むこうの人達もめづらしがっていました。ところがね、その茶は玉露でしたから、それを飲んだ外国人達は一晩眠れなかったと云って、日本の茶の強いのに驚いていました。まったく我々でも、夕飯過ぎなどに、うっかり強い茶は飲めません。

その時私は、日本の方にあるものは、淡いもの、ように見えながら、その実、かなり強烈な香気を持っているということに気付きました。例えば、あの俳句などにしても、ちょっとそう言う味がありはしないでしようか。外国の詩や漢詩などにくらべてみても、それが思いあたります。淡泊だ、淡泊だ、とは日頃よく言われることですがよく味わって見るなら自分等の国にある多くの産物が、一概にそう言えないように私には思われるのです。

▼引用:『雪の障子 : 島崎藤村随筆抄』,月明出版部

山本君がシティ・フアルギェールの書室の方から見つけて持つて来て呉れた古い湯沸とアルコホル洋燈とで、夏以来私の部屋でも茶を入れることが出来るやうに成った。私の贅澤はこの巴風に居てふるさと懐かしい緑茶の香りでも嗅いで見るくらゐのものであつた。その日も私は山本君への馳走振に自分の好きた茶でも煮て出さうとしたら、…(略)
                               ▼引用:エトランゼエ(仏蘭西旅行者の群)

「エトランゼエ」は42歳から45歳までの3年間をフランスで過ごした藤村の紀行文です。
1922年(大正11年)の円熟期の作品となります。

「茶」という随筆がいつ頃書かれたものなのかがわからなかったのですが、この「エトランゼエ」の頃の記憶を書いているのではないかと想像します。
当時のフランスの水に日本の緑茶は合ったのでしょうか。気になるポイントです。

また前述の「茶」にも記載がありますが、寒い山国で過ごした子供時代をモチーフにした絵本も出しています。
そこにはチャノキを育て、製茶をしていることが書かれています。

お家では、おばあさんや、おばさんや、おひな(下女の名)まで、てぬぐいをかぶりまして、おじさんや、じいやといっしょにはたらきました。きんじょから、てつだいにきてはたらく人もありました。いいお茶のにおいがするのと、家じゅうでみんな、はたらいているので、とうさんもスズメといっしょに、そこいらをおどってあるきました。とうさんのお家では、このお茶ばかりでなく、たべるものも、着るものも、自分のところでつくりました。おみそも家でつくり、おしょうゆも家でつくり、おばあさんやおばさんのかみ(契)につける油まで、庭のツバキの木の実をしぼってつくりました。休にあるコナシのかわをどってきて、黄色いしるで糸までそめました。休にあるコナシのかわをどってきて、黄色いしるで糸までそめました。とうさんの子どものじぶんには、おばあさんの織ってくださるきものをき、じいやのつくってくれるぞうりをはいて、それで学校へかよいました。そうして、手づくりにしたもののたのしみを、とうさんにおしえてくれたのは、おばあさんでした。

おばあさんは、はたらくことがすきで、みんなの先にたってお茶もつくりましたし、きものも、根気に識りました。

▼引用:ふるさと : 少年の読本

他の随筆の中には以下のような言葉を残しています。

野菜を貯へ果實を貯へることなどは、殆ど年中行事のやうに成って居ました。母は若い嫂を相手として、 木梨の汁などで絲をよく染めました。茶も家で造りました。 茶摘といへば日頃出入の家の婆さんまで頼まれて来て、若葉をホイロに掛けて揉む時には男も一緒に手傅ひました。玄闘前の庭の横手には古い椿の樹がありましたが、その實から油をも絞りました。 私は母や嫂の織った者物を着、下男の造つた草履を穿いて、少年の時を送ったのです。

                                       ▼引用:生立ちの記

茶を摘み、ホイロで茶を揉み…
昔は多くの家の周りには当たり前のようにチャノキがあり、自家用の茶を1年分製茶していたそうです。
5月の田植えと重ならないように忙しい中で茶を摘んで自家用茶を作るという風習は一部の地域で今でも残されており、彼の幼少期の頃は当然のことだったのだろうと思います。

また、彼の小説にも茶が度々登場しています。
「新生」「桜の実の熟する時」などには「茶を飲む」「茶道具を持って…」「茶をお出ししなさい」などの言葉が何度となく出てきます。
島崎藤村が生きた時代には当たり前の日常を描く道具としてお茶があったということが分かります。

「写真と書簡による島崎藤村伝」という本の中には「夜明け前」執筆の頃の写真が掲載されているのですが、文机の前に正座をしており、火鉢と湯飲みを乗せた盆が脇に置いてある姿が写されています。
小説の主人公が煙草盆でたばこをふかしながら、茶を飲む姿は島崎藤村の姿そのものです。

大磯町郷土資料館には晩年彼が使っていたと見られる湯飲みと急須が展示されているのを何度か見たことがあります。(常設かどうかは未確認)

これらの記載を見ると島崎藤村は茶がお好きであったことがはっきりとわかります。

島崎藤村が好きな煎茶のこと

藤村

実はこちらの商品、大磯の人気カフェ「パン屋の富田」さんからご相談をいただき作らせていただきました。
「パン屋の富田さん」の裏にあたるのが藤村の終焉の地(旧島崎藤村邸)です。

そして、「パン屋の富田」さんが、こちらも大磯の人気パン屋「パンの蔵」さんとコラボして誕生した「藤村あんぱん」に合わせるのに丁度良いもの、というお話でしたので、煎茶で、かつ餡の甘さに負けないものを検討しました。
藤村あんぱんは胡桃黒餡で、とても美味しいです。

藤村の故郷である馬籠(現在の岐阜県)周辺の煎茶で検討し、知人の協力でいくつかのサンプルをテイスティングし、岐阜県東白川の煎茶をセレクトしました。

玉露のように湯温を下げて濃厚に淹れるよりは、熱湯で淡い味わいを楽しむ方がお好みだとエッセイに書かれていますので熱湯でも美味しく飲める、ということが前提です。

かつ、あんぱんにも負けないしっかりとした味わいが出るものと考えてセレクトしています。

お勧めの淹れ方

ティーバッグ1個に2.5gの茶葉が入っています。

≪あんぱんなどのお菓子に合わせるなら…≫
ティーバッグ1個を湯飲みに入れ、熱湯100㏄程度を注ぎ1分程度抽出してください。
ティーバッグを取り出し一煎目を飲んでいただきましたら、再度熱湯で30秒ほど抽出してください。

熱湯で抽出することにより渋みも出ますが、あんぱんなどの甘味をさっぱりと流してくれます。

≪まったりと味わう場合は…≫
ティーバッグ1個を湯飲みに入れ、70℃~75℃程度の湯を注ぎ2分程度抽出してください。
円やかな甘旨味が存分に味わえます。
二煎目は熱湯でさっと抽出していただき、三煎目くらいまで飲んでいただけます。

ご紹介させていただいた淹れ方は私の好みです。
渋みや旨味の感覚は人それぞれですので、お好みの抽出法を探してください。
大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶と飲み比べていただくのも楽しいと思います。

【注】
開封後は酸化しやすいため、できるだけ早くお召し上がりいただくようお願い致します。

最後に…

島崎藤村に関してはお茶がお好きだという話を以前から耳にしていたので、調べるとすぐに色々資料が出てきました。
余談にはなりますが、大磯町の老舗菓子屋「新杵」さんの初代店主齋藤市太郎氏が大磯のすまいを”差配”してくださったそうです。(登記などの登録は市太郎氏の兄?が代理で行ったとか)

齋藤市太郎氏と島崎藤村の三男蓊助氏、天明愛吉氏などが集まって亡き島崎藤村について対談している「改造文芸」という雑誌によると、島崎藤村は新杵の羊羹と葛切りが大好物だったそうです。
また、三男蓊助氏は葬式饅頭が大好物で、焼いて食べていたと話しています。

パンの蔵さんの藤村あんぱんもお茶とぴったりですし、新杵さんの銘菓、西行饅頭などもぴったり合うのではないかと思います。

こちらも余談となりますが、島崎藤村の時代はまだ所謂「深蒸し茶」という蒸しがしっかりとした緑色の茶液が綺麗な製茶法は一般的ではなかったかと思います。
ということで、「煎茶」にしているところも個人的にはお伝えしたいポイントです。
深蒸し茶がいつから一般的になったのかなどの詳細をまだ追えていないため、いずれ追記していきたいと思います。

専門家ではないため、間違いを見つけた場合(ご指摘いただいた場合)は随時修正をしていきたいと思っております。
また、何かお茶に纏わる資料を見つけた際は更新していきたいと思います。
何かございましたら遠慮なくこちらからご連絡ください。

素敵なアイデアをくださった「パン屋の富田」さん、大磯ガイド協会の先輩、こちらの商品を作るためにご協力いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

是非旧島崎藤村邸においでください。

NPO法人大磯ガイド協会では随時ガイドツアーも行っております。
様々な企画ツアーが開催されており、2月には島崎藤村が愛した地福寺の梅見学なども巡るツアーや藤村が大磯町に来るきっかけとなった左義長(1月)のガイドツアーなども行っています。

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