【商品紹介】伊藤博文に飲んでもらいたい番茶

伊藤博文全体 商品

大磯町にある明治記念大磯邸園の「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」が2024年11月23日より一般公開されています。
旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)も令和10年に向けて補修工事中です。

それに合わせ、(お茶の店ニルマーネルの店主の趣味で)「伊藤博文に飲んでもらいたい番茶」を販売させていただくことにしました。
同時に「大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶」もリリースします。

吉田茂に飲んでもらいたいミルクティブレンド
西行法師に飲んでもらいたいほうじ茶
松本順に飲んでもらいたいミルクティブレンド
同時リリースの
大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶

合わせて第四弾、第五弾です。

伊藤博文について

▼出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

天保12年9月2日 〜 明治42年10月26日(1841年10月16日 〜 1909年10月26日)享年68歳
元々周防国の百姓であった父が長州藩(山口県)の足軽の家に養子に入ったことから、伊藤姓になります。

若い頃は吉田松陰の松下村塾に学び、木戸孝允、高杉晋作らと尊王攘夷運動にのめり込みます。
しかし井上馨らとイギリスに密航することにより圧倒的な国力差を目の当たりにし、以後開国論に転じます。
藩の内戦を制したことなどから藩政改革に参画することとなり、明治政府に登用されていきます。

明治4年の岩倉使節団で海外を見聞、大久保利通の信頼を得ます。
大隈重信らと鉄道敷設や円の制定などにも尽力し、のちに大久保利通亡き後を継いで内務卿に就任。

明治18年(1881年)内閣制度を樹立し初代内閣総理大臣に就任します。
枢密院議長に就任して大日本帝国憲法の制定に尽力。帝国議会が開かれると貴族院議長に就任し、その後総理大臣を三度務めます。
日露戦争の後初代韓国統監に就任。

明治42年(1909年)韓国統監を辞職した後、ハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根により暗殺。

大磯町には明治29年(1896年)に別邸「滄浪閣」を建て、翌年からは本邸となります。
亡くなるまで大磯で暮らしたことになります。
(現在改修工事中、令和10年に公開予定)

伊藤博文と番茶について

伊藤博文とお茶との関わりを色々と調べてみました。

大隈重信ほど茶についての記載は見られないものの、店主が見つけた限りの記録の中に書かれているのは「番茶」でした。

毎朝餐は取らないで起床洗面後は番茶の煮花に1、2個の梅干、大井の恩賜館と大磯の滄浪閣とには年中上等の梅干を漬けてあった位、昼は大抵外食、晩餐は手軽に済し、浴後が例の御寝酒であった。

※【注】御寝酒…主な食事が御寝酒と言って11時~夜中2時3時の夜食
魚はなんであろうと刺身がお好き。西洋式のシチューのような肉がゴロゴロ入ったものも召し上がることもあるが、さっぱりしたものの方がどちらかと言えば好きだったようである旨が記載されています。

▼引用:『グラヒック』,有楽社,1909-11

彼は大抵朝六七時頃に目を醒ました。その頃には、もう大抵、数人の訪客が詰めかけて居る。彼は大抵、朝飯代わりに茶を飲みながら、それらの訪客に接する。気が向くと書斎の中の戸棚からウヰスキーか葡萄酒を持ち出して来て、小さいグラスで舐めながら、用談を聞く。急がしい時は、一人に五分間を限って、時計を見ながら相手になるが、滄浪閣に居る時だと、人によっては何時間も話し込んでしまふ。そのため朝飯を食わない時が、非常に多い。

▼引用:『偉人伝全集,改造社,昭和6

下の引用には「茶」とだけ書かれています。
番茶だけではなかったかも知れません。

朝食を取れないほど毎日忙しいため、番茶を飲みながら梅干をつまんですぐに接客している姿が想像できます。

亡くなった際の検死では身長五尺三寸(160cmほど)、体重十五貫五百目(57kgほど)だったそうです。
夜中にドカ食い(御寝酒)をしても中肉中背を保てていたのは、茶と梅干だけの朝食代わりが良かったのかもしれません。

余談ですが、煎茶を嗜んでいたというような話も見かけたのですが具体的な流派などまではわかりませんでした。
どなたかご存じの方がいらっしゃればご教示ください。(知識人の嗜みとしてやっていただけだろうか?と想像していますが、お気に入りの煎茶用急須があったとかなかったとか…)

伊藤博文のエピソード

先ほどご紹介した本には伊藤博文の日頃の生活や性格、嗜好などについて書かれている項があります。
そちらを読んでいると、好き嫌いなく何でも食べ、服や髪型などは無頓着であったことが書かれています。

彼は粗食家で、何でも平気で食ったやうに、その服装も、無頓着であつた。彼は、一張羅のフロックコートで、何處へでも出かけて行った。普段着の和服は、梅子夫人が自ら仕立てた銘仙の着物。冬はそれにぶくぶくの綿入れ羽織を引っかけてゐた。夏など、滄浪閣にいる時には、よく白地の縮みを着て、素足で大磯の町をぶらついてゐた。時々、手拭ひで頬冠をして、小田原、真鶴あたりまでも、一人で散歩に出たさうだ。

▼引用:『偉人伝全集,改造社,昭和6

また、ショートスリーパーだっとか。(4時間5時間ほど)
不摂生をしている割には病気には無縁であったとも書かれています。

大隈重信は非常に健康に気を付け晩年はかなり摂生しましたが、そのあたりが対照的で面白いです。

大隈重信は早稲田の温室で植物を育てることが趣味で、蘭や盆栽やメロン、マンゴーなどもあったそうです。
そして人と話すことが何より大好き。

対して伊藤博文は昔少しだけ刀剣収集や碁にはまったりしたこともあるものの、晩年は縁側で本を読んでいることが多かったようです。(ナポレオン全集は愛読書だとか)

お金にも無頓着で、物にも執着しない。
プライベートはそんな方だったことがチラホラ散見されました。

伊藤博文に飲んでもらいたい番茶について

伊藤博文袋

初代内閣総理大臣といういかめしい肩書があるものの、大磯では近所の人達に「大将」と気軽に呼ばれていたり、ほっかむりしてフラッとお出かけしてしまうなど一般人のような振る舞いがなんだか親近感を感じてしまいます。

江戸時代以降、庶民が飲んでいたのは日干しの番茶などだと言われています。
元は農民の出である彼も番茶を飲んでいたのだろうと想像します。

彼の出身地の山口県も含む中国四国地方では、今でもあちこちに番茶があります。
私自身、番茶と言えば真っ先にこのあたりが頭に浮かびます。

そこで大隈重信同様こちらも知人にいくつかサンプルを送ってもらい、セレクトをしました。

イメージは
「朝起きた時に梅干と合わせて飲みたい番茶」
です。

今回セレクトした番茶は梅干とも合いますし、大隈は食べなかった「茶漬け」にもピッタリです。

偉ぶらず、人と対等に接した伊藤博文だからこその日常的な「番茶」です。
是非気軽にお試しください。

お勧めの淹れ方

ティーバッグ1個に2.5gの番茶が入っています。

マグカップにティーバッグ1個を入れ、180㏄程度注いで1分ほど抽出してください。
2煎くらいは飲むことが可能です。

また、麦茶のように煮だしていただいても美味しく飲むことができます。
夏はそれを冷やしていただくとさっぱりとして美味しいです。

この番茶を使って梅干を乗せたお茶漬けは最高です。
是非色々と試してみてください。

最後に…

明治記念大磯邸園にある旧滄浪閣(伊藤博文邸跡・旧李王家別邸)は改修工事を進めていますが工事終了は延長され、令和10年くらいの予定になっています。

早く中に入って見てみたいと思っています。

専門家でもないため、間違いを見つけた場合(ご指摘いただいた場合)は随時修正をしていきたいと思っております。
また、何かお茶に纏わる資料を見つけた際は更新していきたいと思います。
何かございましたら遠慮なくこちらからご連絡ください。

以前から考えていたアイデアを形にできて、感無量です。
こちらの商品を作るためにご協力いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

是非明治記念大磯邸園に足をお運びください。

NPO法人大磯ガイド協会では随時ガイドツアーも行っております。
明治記念大磯邸園を含めたガイドが必要な際は是非一度ご相談くださいませ。




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