2023年10月にこちらの「吉田茂に飲んでもらいたいミルクティブレンド」という商品を作り、その後「西行法師に捧ぐ 旅疲れを癒すほうじ茶(現西行法師に飲んでもらいたいほうじ茶)」を2023年12月に発売開始しました。
大磯町にある明治記念大磯邸園の「旧大隈重信別邸・旧古河別邸」「陸奥宗光別邸跡・旧古河別邸」が2024年11月23日より一般公開されています。
それに合わせ、(お茶の店ニルマーネル店主の趣味で)「大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶」「伊藤博文にのんでもらいたい番茶」を新しくリリースしました。
同時に「吉田茂に飲んでもらいたいミルクティブレンド」もパッケージや価格などをリニューアルしています。
西行法師に飲んでもらいたいほうじ茶
松本順に飲んでもらいたいミルクティブレンド
大隈重信に飲んでもらいたい上級緑茶
伊藤博文に飲んでもらいたい番茶
吉田茂に関しましては内容は変わらず、パッケージと価格のリニューアルとなります。
誠に勝手ながら原材料、包材等の価格高騰により、350円➡400円(3ティーバッグ入り)に値上げをさせていただくことに致しました。
ご愛顧いただいている皆様には誠に申し訳ございませんが、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。
吉田茂について
▼出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
吉田茂(明治11年(1878年)~昭和42年(1967年))は第二次世界大戦前32年間を外交官、戦後政治家として18年勤めます。
戦後、第45代、48代、49代、50代、51代に渡って内閣総理大臣を経験し、日本の復興に尽力します。
外交官になりたての若い頃にもロンドン勤務をし、第二次世界大戦がはじまる直前の昭和11年(1936年)から外務省を引退するまで駐イギリス大使を務めました。
外務省を辞職した昭和14年(1939年)から週末を大磯町で過ごすようになり、東京大空襲(昭和20年/1945年)により東京の自宅が全焼してから大磯の屋敷に暮らすようになります。
▼参考:神奈川県立大磯城山公園旧吉田茂邸地区
戦後になってから5期に渡って内閣総理大臣を務め、日本における占領の終結と主権の回復、国際的地位向上にも尽力しました。
政界引退後、様々な人材を政界に送り込み、昭和42年(1967年)に89歳の生涯を閉じます。
吉田茂と紅茶
ロンドンのサンデー・タイムス紙特派員のリチャード・ヒューズ氏が吉田茂を取材した際の様子を記したある記者は以下のように書いています。
日本茶とお菓子の後、吉田さんは手を鳴らして、紅茶を命じた。これも伝説の部類に属する話で、本当かどうかは分からないが、緑茶と和菓子だけで終わらずに、紅茶と洋菓子が出るのは、気に入った相手で機嫌のいい時だと聞いていたが、紅茶の後、さらに「果物か何か…」までに話がはずみ、一時間の予定が二時間近くになってしまった。
■引用:アサヒグラフ 臨時増刊 緊急特集 吉田茂の生涯 雑誌 – 1967/11/5
そこにはリチャード・ヒューズ氏と吉田茂の晩年のパートナーであったこりんさん(坂本喜代)とともに、ティーカップ(恐らくミルクを入れているのが確認できます)とカステラと思しき菓子を楽しむ写真が添えられています。
また、東京都港区麻布にある外務省の外交史料館には吉田茂が愛用していたとされる銀製のティーセットが所蔵されているそうです。
外交官として客人に紅茶を振る舞ったことも多々あると考えられます。
ロンドンに滞在し、駐イギリス大使として暮らしていたとすれば日常的に紅茶が出てくるでしょうし、紅茶を飲まずに過ごすということはほぼ考えられません。
とはいえ、実際にティーカップを持っている写真などはいくつか見つかるものの、紅茶について吉田茂自身が何か語っているというような資料は今のところ見つけられていません。(今後見つけ次第追記していきたいと思っています)
また、戦後総理官邸として旧朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)に暮らしていた時期のことが書かれていたものを見ると以下のように書かれています。
総理の朝食はパンと果物、それにコーヒーという至極簡単なものである。卵は目玉焼きにする。これが首相の好物なのである。果物はなかでも柿を好む。それから首相は、乾菓子と生菓子の合いの子のような菓子類を好んでいる。昼は洋食で、晩は大抵和食ということである。
和食といえば、里芋の煮つけ、鳥の蒸し焼き、湯豆腐、おでんなどが首相の好んでたべるものであるが…(中略)
▼引用:丸 1950年
なんと!
朝食はミルクティーではありません。涙
国会図書館で一人涙したのは内緒です。
また、いくつか食べ物の記述などを見てみましたが、三女の和子さんは「卵焼きとか刺し身のような単純なものが好きでした」と仰っています。
ただ、とにかく好きな食べ物をずっと食べ続ける傾向にあったそうです。
うどんにはまり、粉を大量に買って、ずっとうどんを食べていたというようなエピソードも。
ここから考えると、マナーとして接客用に紅茶は飲むけれど、さほど紅茶に興味があったようには見えません。残念ながら…。
当時のイギリスの紅茶ついて
紅茶にはさほど興味がないかも知れませんが、吉田茂は紅茶を度々飲んでいたことには違いありません。
そこで、駐イギリス大使として暮らしていた頃(1930年代)のイギリスの紅茶事情について調べてみました。
第一次世界大戦後イギリスでは上流階級層が没落し始め、経済状況は悪化の一途。
それまでトワイニング社のような老舗では、多くの従業員がいる大きな邸宅に50ポンド(20キロ以上)、100ポンド(40キロ以上)という大量な茶葉を量り売りしていましたが、従業員は解雇され、屋敷を手放す上流階級層が増えたため茶葉の消費も落ち込んでいきます。
次第に保存性の良い小分けのパッケージに移り変わっていくのはこの頃です。
また、1930年代に入ると農業生産力が上がったことにより需要と供給のバランスが崩れ始め、主要生産国(インド、セイロン、インドネシア等)が主体となり「国際茶業委員会(ITC)」が成立します。
これにより紅茶生産国は生産量と栽培面積の制限がされ、低迷していた紅茶の価格は緩やかに上昇していきます。
第二次世界大戦中は紅茶も配給制となるのですが、戦地の兵士たちには大量の紅茶が送られたそうです。
他の国には類を見ない給湯器が搭載された戦車が作られ、戦時中もお湯を沸かして紅茶を飲んでいたとか。
紅茶の国イギリスらしいエピソードですね。
今回のブレンドティのコンセプトについて
上記に述べたような時代、駐イギリス大使を務めていた吉田茂はどのような紅茶を飲んでいたのでしょうか。
国際茶業委員会によって生産量などが制限されたとしても、当時ブレンドの主となるのはやはりインド、セイロン(ジャワ)辺りではないかと考えられます。
国際茶業委員会の取り決めによって市況が上向きになると、逆にブレンド用の価格の安い紅茶が不足する事態となります。
その時急激に輸出を増やしたのが我が国日本の紅茶。
世界は繋がっていますね。
当時の紅茶は今ほど製茶の精度も高くないように思えますし、割とあっさりした味わいではなかったかとイメージを膨らませました。
紅茶を巡る世界情勢を頭に入れた上で、吉田茂の好みも想像して考えてみました。
吉田茂は3歳で貿易商吉田健三の養子に入り、11歳で義父は亡くなりますが現在の価値で50億ともいわれる財産を相続します。義父が貿易商、富豪であったことから恐らく幼き頃から世界の美味しいものを食べたり飲んだりしてきたことでしょう。
これらのことを考え併せて、「吉田茂に飲んでもらいたいミルクティブレンド」はスリランカ(セイロン)、インド、ネパール、そして日本の紅茶をブレンドしました。
イギリスと言えばやはりミルクティが鉄板ですので、ミルクに合うように、かつストレートでも美味しく召し上がっていただけるような紅茶に仕上げました。
前述したように紅茶にはそれほどこだわりはなかったかも知れませんが、気に入ったものはずっと愛用してくださるはずです。
吉田茂が「おお、なかなか美味しいじゃないか」と言ってくださること、気に入ってずっと飲み続けてくださるような紅茶を私なりにイメージしてみたものです。
是非お試しいただけますと幸いです。
そして大磯町の旧吉田茂邸にも是非足をお運びください。
吉田茂が暮らした頃の建物は残念ながら火災で焼失してしまい、当時の写真などを元に復元したものとなりますが、吉田茂が暮らしていた頃の雰囲気はそのままです。
庭園は四季折々の吉田茂が愛した花が咲き、彼が愛した薔薇たちも見事です。
NPO法人大磯ガイド協会のガイドツアーもあります。
ガイドツアーに関して基本的には要予約ですが、土日祝は旧吉田茂邸内の庭園のみ常駐ガイドがおります。(おひとり100円で案内しています)
実はこっそり店主も定期的にご案内させていただいております☺(まだまだ初心者ですが!)
▼参考:大磯城山公園【公式】旧吉田茂邸地区
▼参考:NPO法人大磯ガイド協会
お勧めの淹れ方
ティーバッグには2.5gの茶葉が入っています。(3個入り)
およそ150㏄(ティーカップ1杯分)の熱湯にティーバッグ1個を入れ、カップに蓋をし、静かに待ちましょう。
抽出時間の目安は
・ストレートティ:2分~3分
・ミルクティ:3分~5分
程度がおススメです。
お好みで調整いただけますと幸いです。
コメント