お茶の木がそこかしこにある世界を思い浮かべてみた

夏のある日、元気に育っている茶の苗の周囲の草をむしりながらぼんやり考えていた。
現在の農業は人の暮らしと離れたところにあるなぁと。

高度経済成長期などで都市部の人口は急激に増え、今まで住宅地の周囲にある農地にも住宅が建ち町(街)が形成されていく。

住宅が密集した場所からは緑が消え、農業は地方へ、住宅地ではない場所へと広がっていく。
昔々は家の隣に畑があり、作物が育つ風景や作物を収穫する手伝いをさせられたりしたものなのだろうけど、今は地方でなければあまりそういったことはない。

茶に関して言えば、昔から山の斜面が適していると言われているので野菜などとは話が違うのかも知れないが、山の奥で作られていることが多い。
そして「それこそが良質」とも言われている。

しかし時代は刻々と変化している。
荒茶の生産量は鹿児島がトップに立った。

茶を好む高齢の年代層が少なくなってきていること
ペットボトル飲料の普及により全体的にリーフの茶葉を飲む機会が減っていること
急須を使わなくなってきたこと

様々な理由が考えられるが、生産量1位を誇ってきた静岡が鹿児島に生産量を追い抜かれることになった。

そもそも鹿児島は広大な平野で大型の機械を使用した大量生産に数十年前から取り組んでいた。
大量に作れるから安価で、一昔前はペットボトルの原料に主として使われていた。
しかし年々クオリティも高くなってきていたそうだ。(私はここ数年のことしか知らないので伝聞)

従来の二人用可搬型茶刈機は山の斜面などの茶を刈るのに丁度良い。
しかし乗用型摘採機であれば1人で効率的に、かつ大量に茶を刈ることができる。
これに勝ち目はないことは恐らく多くの方がかなり早くから気づいていたはず。
昨今ではオートメーションで大量かつ良質なお茶をじゃんじゃん作っているとのこと。

一方、量ではなく質や希少性で対抗するということにも力を入れているところも増えている。
観光茶園はインバウンドや親子連れなどに人気があり、客単価もあげられる。
「生産量を上げるだけ」ではない方法を模索している農家は本当にたくさんいる。

話が反れてしまったが、何が言いたいかと言えば、住宅街の合間に茶畑を作るのでもいいじゃない?ということ。
その辺に2、3本チャノキを植えておいてもいいじゃない?

つまりは先ほどの例で言うと高度経済成長前の「農業と住居が共存する世界」があっても良いではないかということだ。

住宅街の中でも活用されずに放置されている土地は多くある。
もはや木になってしまっているような雑草たちが首をもたげている場所を借りて畑にし、通りがかる人たちが茶を育つ様子を眺め、機会があれば一緒に茶摘みをし、茶がどうやって作られているのかを年間通して自然と目にする。

大磯の畑の近くを通る年配の方たちと話をすると、「子供の頃は垣根が茶で春になると茶摘みに借りだされた」「ホイロがあって茶を作って飲んでいた」というような話を何度となく聞く。
今は茶畑がひとつもない場所であるにも関わらず、だ。

自分と同じ年やそれ以下の方たちになると「何を植えているんですか?」と聞いてくることがほとんどだ。
そもそも茶畑がない土地柄でもあるため珍しいのは確かなのだが、先ほどの年配の方たちは子供時代に見ているせいか「これお茶でしょ?」と声をかけてくれる。

見ているだけでも、人の記憶には残る。
あちこちに当たり前のようにお茶の木があったなら、小さな子供の心にもどこかで残るかも知れない。

「花が咲いているな」「新芽が出てきたな」
毎日通る通学路なら、ふと見て、一瞬でも何かを感じるかも知れない。

それは誰かの心に小さな種を残すことになるのではないか。

お茶がないところにこそ、お茶を植えたい。
どこかにひっそり残っているチャノキを守りたい。

自分の手でできることは限られるが、そんなことを日々思っている。

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ちなみに狭山などの自営自製自販のスタイルが私の理想だ。
少し歩くと茶畑が道路の脇などにひょいと現れる。工場も近くにある。
茶と共存しているなぁという感じがとても好き。(でも実はあまり行ったことがない)

あくまでも勝手な理想論の話。
ひとりごとなので。←いつも言い訳に使ってるw

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